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だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分だ。

関心
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聖書 マタイによる福音書6章34節

34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
という金言があります。
25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
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共感する部分

※ 私は信者ではありませんから、解釈が違うことも多々あるかと思いますが、個人的な興味関心という類でよろしくお願いします。(-_-)zzz

先が見通せる超能力でもあれば別ですが、どうなるかわからない、考えたところで分かりえない明日のことを思い悩むよりも、今日の今というこの時を大切に生きよということでしょう。天災が起きるときなどがわかりやすいのでしょうか。明日、大地震が起きるなんて予想できないですね。明日自分が、何らかの事故に巻き込まれるなども、あまり想像しません。毎日のようにニュースを見ていても、明日自分の身にも命に関わるようなことが起こるなんてあまり予想しません。だけど、明日の仕事を思い悩んだり、家族の介護や病気といった身近なことや、近い将来のことを思い悩んでアレコレと考えることはあります。

しかし聖書は、そういったことを思い煩うなと説いているわけです。

小さなことで思い煩うな

思い煩ったとて寿命が伸びるわけでもないし

今日生えていて、明日燃やされてしまう草花でさえ、それが神の扱いならこの上ないことだ

神はそれぞれが何を必要としているかいつもお見通しなので、私たちが思い煩わなくても適便与えてくださる

自然の流れに身をまかせて生きる

明日も生きていればどの道、明日になれば明日のことを考えるのだから

今日は今日のことだけを考えればよい

明日を憂うことは無益な時間の浪費。人が死の床で本当に後悔することがあるとしたら、自分の気持ちを表現しなかったこと、仕事のために家族との時間を犠牲にしたことだけでしょう。

神様を信じていなくてもいい。世界の宗教から学べる7つの大切な教訓

ちょっと胡散臭くなってくる部分

上記まですごく共感できると思ったのですが、

キリスト教は神を存在するものとして崇拝する宗教なので、聖書の和訳を読み進めるほどに、けっきょくのところ神様を信仰して、信じれば救われる・・信じる者は救われる、ということを主張しているわけです。

聖書を読むと、神様が世界を作って、神様は全てお見通しで、神様にできないことは無く、物事の行く末は全て神様がお決めになり、生きとし生けるものの寿命でさえも神のみぞ知るという言葉があるように、人の寿命のリミットでさえも神様が操作しているんじゃないか⁈と思ってしまうような内容です。

聖書の入り口で感動したのも束の間、さすがにそこまで神推しではない。

神ありきの、神を世界の中心とした宗教が、神の存在に偏り過ぎているように感じる。どの宗教も、我らが神という対象がいて、それを信仰するというのが宗教なので、そんなものなのでしょうか。

自然の流れに身を任せよと説いているのに、神の存在が絶対的でつくり話ぽくなっていくのが残念。

神って?

神が人型とは限りませんし、見た人もいません?どんな形をしているかもわからない。

私の想像で神は無形だと思います。神がいるとしたらそれぞれの心の中にあって、それぞれが信仰しているものです。

もともと宗教を信仰する心というのが、人は完璧にできていないから、心の拠り所が必要とのことで、古くから悟りを開き、教えを伝え、いくつもの宗教が誕生したきたそうです。※所説あるかも

神って人が脳内で創造したものがある程度形となり広まったのでは、というのが私の考えでもあります。だから無形の創造物です。

神という存在をつくり、ひとつ信仰の対象とすれば、理不尽なことも諦めがつくし

いいことも悪いことも全ては神の仕業、神のみぞ知るということで丸く収まるのですよね。

人が集団で生活していくのに、そのような対象が必要なんだと思います。それぞれバラバラの価値観を持ちながら、ひとつ同じ地球で生きていかなければいけないことを考えると。ときには協力し合ったりも必要ですし。

総理大臣、大統領、天皇陛下といった上位の人たちでさえも、神のような存在にはなれません。

人間は様々な欲があるので実在する人物が神では都合悪いと思います。

国境や人種間の問題や地域紛争などもありますから、ある特定のひとりを崇拝とするのは無理です。

生きている人は必ず死ぬので、永遠の存在が生身の人物とはできません。

そこで神のような存在を創造するとしたら、生死の無いもので、誰もその実体を知らず、誰も手の届かない存在としなくてはいけないと考えます。

誰もにとって等しく尊いものは、実体の無い、まさに架空にも近いものでなければいけないと思います。

裏切りの心配や悪さをする心配もなく、無口で、誰が何を問うても一切答えないものが、全ての人に共通で都合がよいことになります。自分に不都合な神に信仰心は捧げないでしょう。

また人は、頭を使って考える生き物なので、そういった信仰の対象となるものを生みだし、広めることもできるのだと思います。

上の聖書の一部で、鳥は明日を患わないとありますが、人のように言葉を持たず、表現しないからそのように見えるのです。

やっぱり、人が生きていくには「神」となる信仰の対象を創り出し、「神」に一役買ってもらう必要があったのかなと、私は考えますかね・・

神は、それぞれの心にいるのだと思います。辛いときなどは、確かに藁にも縋りたい気分のときもありますね。

あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

しんどいときは、寝るに限ります。寝て現実逃避。起きたら気分も変わってます。

人に攻撃的なことを言ってしまうより、寝て頭をクールダウンします。

あすのことを思いわずらうな。心の支えになります。

そしてまさに、人が死の床で本当に後悔することがあるとしたら、自分の気持ちを表現しなかったこと、仕事のために家族との時間を犠牲にしたことだけということに、私は共感します。

忙しいと親をないがしろにして、ろくに相手にもせず・・自分が大人になったからいい、自分もやることがあるんだと思っても、年老いた親を邪魔にしたり、時間が無いからってあまり構わないでいると可哀相です。人生一期一会、親とも一期一会です。孝行したいときに親は無く、後悔だけしても仕方ありません。

忙しさと自分のことにばかりかまけていると私のような人はほんとうに死の床で後悔することになりそうなので、この言葉は常に頭の隅に置いておくようにしています。

関心
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